特別寄稿:石田三成と津軽(終)

石田三成と津軽

【杉山家で活躍した人々】
二代吉成、寛文9年(1669)、蝦夷地で起こったアイヌの蜂起、シャクシャインの戦いで、幕府の要請を受け、弘前藩侍大将として総勢700名で蝦夷地に渡海し、のちに幕府から褒賞を授与された。
二代吉成を入れて、家老職となったのは、四代成武、六代成なが、九代成章(家老格)、十二代龍江(成知)の5人。家老にはならなかったが、十一代成範(源吾とも名乗った、九代目も源吾を名乗った)は、現在の東奥義塾高校の前身、稽古館の十一代総司に任じられている。明治になって、孫の十三代壽之進が、東奥義塾の七代塾長を受け継いでおり、血筋の因縁を感じる。
十一代成範は、貞五郎の名前で杉山家の「由緒書」を残しているし、十三代憲之進は、「杉山に関する取調帳」など残し、二人の教育者が、杉山家の資料を整理している。最後の家老、十二代龍江(成知)のときは、幕末から明治維新への激変の時代だった明治元年(1868)の成辰戦争では、弘前藩は、はじめ奥羽越列藩同盟に属していたが、杉山青年家老の強い進言で脱退、新政府側となる。この1年後まで続いた、新政府軍と旧幕府軍との最後の戦い、箱館戦争では、弘前藩士千余名を率いて総監となり戦功をあげ食禄百五十俵と刀料金二百両を賜っている。十二代龍江の脳裏には関ケ原の遺恨が少しは晴らせたと、よぎったのでは。

この明治2年10月に弘前藩権大参事に任命される。まず、今日の「海の日」(体日化前「海の記念日」)のもとになる明治天皇北巡建白書を上奏し実現させた。また、県庁のある青森町に市制促進を唱え、言上した。言上の甲斐があったか、弘前市に遅れること9年後明治31年に青森市となる。他にも鉄道会社建設、河川の改修の働きかけなど地域の開拓、産業振興など枚挙にいとまがない。

津軽に豊国神社を再建し、長年弘前城に隠されていた太閤秀吉像を祀りたいと、祖先石田治部少輔の名と由来を上げて塩谷青森県参事に明治9年3月に公に願い出ている。実現されなかった。しかし、維新後すぐ豊臣石田三成の末孫を表明はしていたが、公式ではなく、この願い出によって杉山家が石田三成の子孫であることが、公になった。
最近、十数年振りで革秀寺を訪れた。藩祖為信の御霊屋の扉が開けられると、正面台座の上に、為信の円唾柱の墓石、その右側の台座に太閤秀吉像が鎮座していた。金色に輝く姿は、今なお威厳を保っている。初代源吾が献上したこの像は、弘前城内の北の郭に白布を巻いて隠し、その前立てに稲荷神を安置し、藩主が代々管理し、城の守り神にしていた。その報恩の一徹さを思うと、杉山家の代々の墓に豊臣姓と書かれていても、お咎めがなかったのは当然のことと思え納得した。ただし、杉山家の「豊臣」にこもる思いは、三成の太閤秀吉への忠義心を貫く、豊臣家再興だったのではと思う。4ヶ月もの長い期間、拙文にお付き合いいただきありがとうございました。

三成と津軽のことではまだまだ書きたりないことがありますので、またの機会にしたいと思います。

pdf_download
石田三成と津軽