特別寄稿:石田三成と津軽③

【辰姫と満天姫】
辰姫は7歳の時、北政所(秀吉の室)の養女になったとされ、北政所が、夫秀吉を失った慶長3年(1598)あたりかたで、関ケ原の戦いなどあった平坦ではない12年間を「客人」という名称で育てられた。この後、第1回に述べた、三成と為信の親密な関係、既に津軽に逃れてきていた兄、源吾の存在もあって、北政所の養女として津軽家へ嫁いで来た。
嫁ぎ先、大館でのことは第2回に述べた。辰姫の墓は、母思いの信義によって、満天姫が亡くなって8年後、大館から弘前の貞昌寺に移されている。満天姫は、津軽家へ嫁ぐ前、福島正則の養子嫡男正之に嫁いでいた。ところが正則に実施が生まれると後継ぎにしようと心変わりし、これを察知した正之は荒れた生活を送るようになる。
正則はその有様を口実に正之を成敗してしまい、満天姫を一子直秀とともに徳川家に送り返していた。
津軽家では、この連れてきた子直秀を信枚の弟として受け入れ、後に家老大道寺家の婿養子としている。
満天姫の嫁入り道具として有名なのが「関ケ原合戦絵図屏風」であり、家康に泣いて頼んで貰いうけたとされる。
家康も三成の娘辰姫の存在を知っていて、女達の関ケ原に赴く満点姫の心情を察して持参させたといわれている。

信義誕生の一年後、満天姫にも信英が生まれ、津軽家の三代として推挙するが、信枚は、信義が一年、年長を理由に、満天姫を逆に説得したとのこと。近年になって、信英は側室の子だと分かる。なお信英は、聡明で後に黒石初代藩主になる。
満天姫は、辰姫が亡くなった後、江戸屋敷に移された信義を嫡子として育て、信枚もこれを幕府に認めさせ、津軽家の後継ぎとして届けている。
満点姫の連れてきた子、大道寺直秀も31歳の壮年になり、自らの出自を知るようになり、改易され福島家の再興を願うようになる。もし幕府に直訴するようなことになれば、津軽家に累が及ぶと、満天姫は必死になって説得したが、直秀はなかなか考えを変えようとしなかった。江戸に旅立つとき、別れの杯を飲み干した途端、苦しみだしまもなく絶命する。
わが子の命まで奪って、津軽家を守った訳で、満天姫は亡き信枚の室とし、津軽家の大黒柱になりきっている。この2年後寛永15年(1638)弘前城で50歳の生涯を終えた。
その死に先立って、姪の富宇姫(弟松平泰久の娘)を、信義の正室として迎え、津軽家の安泰をおもいはかっている。

満天姫の業績として、家康を祭った、東照宮神社を、全国諸藩に先駆けて建立したことも挙げられ、これも津軽家の安泰におおいに役立っている。杉山家が、この北国に現在まで生き延びて来られたのは、この辰姫と満天姫が強固な基礎固めをしたからだと考える。即ち、辰姫は三代藩主信義の母となり、杉山家が使える津軽家との関係を確固たるものにした。
また、津軽家は幕末までの260年現封、移封など改易されることがなかった。
それは、弘前藩主が再三徳川家から室を迎えているからとされる。満天姫はその最初の人であり、徳川家と円滑な関係を保つ手本という、重要な役割を果たした。

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