特別寄稿:石田三成と津軽②

杉山源吾の足跡

【杉山源吾の足跡】
関ケ原の参戦では、全国の諸藩は東軍か西軍かで苦慮したが、津軽家では為信自身と三男信枚は東軍に、嫡男信建には兵三百を率い西軍に参加させた。信建がこの任にあたったのは、元服後の親代わり、鳥帽子親が三成だったこともある。
合戦の時、信建は関ケ原ではなく大阪城の守備についていて西軍敗戦の報を知り、秀頼の小姓として大阪城にいた三成次男、重成を津軽へ逃した。信建の命をうけ先導をしたのが、津軽為信の功臣神丹波といわれ、重成が津軽に入って、丹後の一族神家のすみか深味深宮(現北津軽郡板柳町)に隠れ住んだのはそうした縁があったからである。また随行者は、総勢21名(男18、女3)、このうち多くの人達は、深味、神家の世話で深味周辺に土着し、開拓に従事した。
重成は、津軽の地に住んでから、杉山源吾と名乗り、なぜ重成は杉山を名乗ったのか。深味に深味八幡官があり、最初杉山八幡官と呼ばれていた。その語り継がれたことを書き留めた「杉山に関する取り調べ帳」によれば「八幡官の神体は太閤秀吉が護身即ち肌着のの守り神とせるものなるを石田三成の偉功を賞せられて近江国杉山と称する所に於いて親しく賜りたるものなり。故に右名誉の地名を以て苗字を杉山と改称したるものなり」とある。また、重成は幼少ながら江州杉山の郷(現滋賀県甲賀市信楽町杉山)に五千石を拝領しており、その所領だった江州杉山に由来するのではないかとの説もある。

慶長15年(1610)4月、源吾は、津軽家が関ヶ原の戦いの功績で得た上州大館の地(現群馬県大田市尾島町)に移される。嫡男吉成が生まれた年が、慶長12年(1607)頃とされており、次男も翌年生まれていたが、この二人の生母・朽木某女は、次男誕生後間もなく亡くなった。従って二人の世話をしていた拓植某女を随伴しての移転だった。移ったその年、三成三女が津軽家二代信枚に嫁いで来ており、その嫁ぎ先がこの大館なので、源吾は妹辰姫の世話役に任ぜられたのである。辰姫は、以後、この地の地名、大館御前と呼ばれる。平穏な3年が過ぎた慶長18年(1613)、徳川家康が姪、満天姫を幼女として嫁がせてきた。このため辰姫は側室に、降格させられる。しかし、辰姫は嫁いで9年目、元和5年(1619)津軽三代目となる信義を生み、津軽家と杉山家の縁を強く結ぶことになる。
一方、父の移転でこの地で育った、源吾の嫡男吉成は、元和7年(1621)15歳になり元服し、信枚の招きで津軽家へ出仕し、三百石を拝領し、後には千三百石の家老となり、杉山家の基となった。
辰姫は、元和9年(1623)7月、わが子の藩主姿を見ることなく、わずか32歳で生涯を閉じた。
源吾は、この後、後妻となった拓植某女との間に生まれた三男成保とともに江戸早稲田に移り住み、津軽家から四百石の合力米を支給されたとのこと。おそらく兄、宗亨禅師をはじめ、一族の連携にあたったものと推測される。
寛永18年(1641)53歳で亡くなる。
新宿区早稲田町の建勝寺の過去帳(建勝寺は戦災に遭い廃寺、新宿区原町の専念寺に保管)に戎名「道光院殿覚扇了関大居士」杉山源吾の名が残っているとのこと。

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杉山源吾の足跡