特別寄稿:石田三成と津軽①

石田三成と津軽

【はじめに】
本誌の会報委員の笠井さんとは、弘前、宗徳寺の檀徒代表同士ということで、
出筆させていただくことになった。
石田三成は津軽ではあまり知られておらず、まして三成の次男重成(津軽で改名杉山源吾)が津軽に落ちのびてきたり、三女が津軽二代藩主信枚に嫁いできていて、その子の三代藩主信義が三成の孫であることなどは、ほとんど知られていない
それは、津軽家と杉山家が固く秘密を守り徹したのが1つの理由である。杉山家の例では、家系図には石田三成の文字がまったくなく、冒頭が「某」となっていて「某」の説明として、豊臣姓杉山源吾となっている。三成を隠しても、豊臣姓としては意味がないように思えるが、当時は素性が明らかでないものは、怪しいものとし、家臣として採用されない時代、同系図杉山源吾の添え書きにも「太閤秀吉公に仕え五千石を拝領す」とある。宗徳寺にある杉山家二代目吉成から十一代成範まで明治以前の墓標には「豊臣」の文字が刻まれている。

【津軽に知られていないもう1つの理由】
関ケ原の戦いの敗者三成は、江戸時代に千利休を陥れたり、秀頼の父親にされたりとかで、奸臣扱いされ少しずつ不人気になっていった。昭和になって、三成はそんな悪人ではない、義の人だったと名誉回復につとめた歴史学者渡辺世裕博士がいたが、三成の子供が津軽に行くはずがないと、三成次男の津軽落ちのび説を否定した。
それに追従する学者も現れたりして、この否定説が誤りだと解明されたのは13年後の昭和16年だった。
渡辺博士説の根拠となった三成系図の正室との子供は、一男五女(現在解明されている子供は三男三女)だったので、一男は出家していて、津軽には行くはずがないということだった。
昭和16年といえば太平洋戦争が始まった年で、この年からの半世紀余りは戦争とその復興で歴史どころではなく、渡辺博士説が完全に否定されたのは、平成9年白川亨著「石田三成とその一族」が刊行されてからである。白川さんは4年前に亡くなられたが、平成12年には、三成の四百回忌法要を宗徳寺で私と一緒に行っている。本稿も白川さんの資料を多々参考にした。なお白川さんは杉山家四代杉山成武の弟金十郎の子孫である。

【津軽家は何故三成の子供を保護したのか】
天正17年(1589)弘前藩祖為信は、南部家から独立し大浦家の養子となり、津軽一帯をほぼ手中に収めた。
そこで検地奉行として接点があった三成に取り直してもらい、豊臣秀吉に名馬と鷹を献上し、津軽一帯の所領を安堵された。ところが、領土を奪われた形となった南部家は為信を失脚させようと、前田利家を通じて告発。当時秀吉が通達していた領土争いを禁ずる「「惣無事令」に違反していると訴えた。
翌年3月、小田原へ参陣した為信は、三成を介して途上の沼津で、秀吉に謁見し「津軽での領土争いは祖先大浦家のものを取り返した義戦である」と釈明し、認められた。

この1年後、天正19年(1591)に、やはり南部家と反目し争い、惣無事令に背いたということで、九戸家が一家皆殺しになっている。つまり三成は、津軽家にとって起死回生の恩人といえる。

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